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総絞りのボウタイ
絞り染のボウタイ
(音楽・みじかくも美しく燃え)
少し昔話を・・・
政次郎の家は代々武士の家系で、さかのぼること約六百年前、九州勢を従え上洛した大名の大内氏に仕え、主に槍、弓矢、刀剣、鎧、武具の一部などの修復や調達を担っていたと聞き及びます。
数々の戦功武勲を誇りながら戦国時代を駆け抜け、四代前約1850年までは、京都の山崎を支配していた名主(庄屋)でありました。
私の父、初代政次郎は大西家の三男として生まれ、旧制中学を卒業後、旧制高校の三高の受験に失敗し、中国大陸に亘り、縁を頼りに南満州鉄道に就職、客室係、食堂車の給仕、そして給仕長を経て、大連にて高級日本料理店を1945年まで開いておりました。戦後、神戸にて、語学力を生かして、小さいながらも輸入雑貨店を開き服地や靴、ありとあらゆる雑貨を扱ったと聞きます。
初代・政次郎の銀ボタン
父の死後、60着近く収納できるクローゼットを整理していた時、5,6着あったアイリッシュリネンの三つ揃えスーツの後ろから、見慣れないネイビーブレザーが二着ありました。
どうも夏物と合物のようで、夏物は、生地目の粗いポップサックのような質感のものでした、合物は、非常に柔らかいウーステッドのような生地、柔らかなハンドステッチが生地の淵に施してありました。
裏地は白と赤のストライプ、ともにボタンは銀の三つボタン段返りで、袖ボタンは4つ、袖ボタンが外せるようにボタンホールが切ってあり、とてもエレガントなネイビーブレザーでした。
父は、お洒落な人で、スーツやジャケットはもちろんオーダーメイドで、しかも手縫いで、生地は英国製というこだわりを持っていた人でした。
父、正次郎は180センチ近い身長でとても目立っていたと聞いています。
残念ながら、私は169センチの小柄で、着用は叶わなかったのですが、なぜか不思議に銀のボタンだけを形見として手元に置いていました。
後年、気になっていたネイビーブレザーの話を叔母から聞いたのですが、あのネイビーブレザーは南満州鉄道に居たころ、英国人デーラーにビスポークさせたもの、「あの銀のボタンはあの宝飾店にオーダーしたものよ」と聞かされました。叔母からその話を聞いて改めて、父の形見の銀ボタンを探してみましたが、残念ながら、今も見つかっていないのです。(写真はリネンのスーツ/イメージです。)
初代・政次郎のネクタイ
当然のことながら、初代政次郎のクローゼットには夥しい数のネクタイが所蔵されていて、驚いてしましました。
正確に数えたことは中なかったのですが柳行李に一杯、200本程度はあったようです、ネクタイ掛けには四季に応じて20本程度が掛けられていました、その殆どがニットタイとジャガード織のネクタイであったと記憶しています。
その中に、ボウタイ(蝶ネクタイ)が三本混じっていました、黒地に5ミリ程度の白の水玉文様、とても上品、タグを見るとTurnbull & Asser(ターンブルアッサー)とあり、英国製でありました、後、一本は黒のサテン地の蝶タイ、たぶん夜会用の服に合わせて使っていたのだと思う。
残りの一本ですが、何故か先の二本のボウタイと異質な感じを受けたのです、欧米の生地ではない、質感、日本の着物生地の様、濃茶に白のドット、その中に濃茶の丸があるのです。
台所で夕餉の支度している家内に
「おい、このネクタイの生地、ナンヤと思う?」
どれ、手に取って「これ絞りやょ。」
「そうか、絞りちゅんかぁ」
私が不思議そうに眺めていると
「この白い丸、職人さんが糸で縛っているから
その所だけ染まれへんの」
「手間かかる仕事やね」
「それにこれ、見て、ボタンで長さ調整するようになってるょ、
しかも手縫いのボタンホールやわ、丁寧な仕事やゎ、」
私が手に取って
「 ほんまや、ボタン割れとるけど貝やな・・普通は金具で留めるやろ、」
家内がニコニコして
「お義父さん、お洒落やったし、わざと絞りで作ったんかも」
「それにしても、ボウタイやで、親父も粋な事しょるなぁ・・・・。」
「修理して使おうかなぁ、どや、似合うと思うか。」
俎板に向かって、トントンと野菜を刻み始めた家内からは返事がありませんでした。
実は、家内は、京都育ち、京三条の古道具屋の娘、幼いころから茶碗や古道具、書画、骨董、時代物の着物等に
囲まれ目が肥えているのです。
門前の小僧・・・、何とかという訳です。
今も、時代物の着物選びをお手伝いしてもらっています。