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日本の洋装の始まりは、1867年パリ万博か。

日本の洋装の始まりは、1867年パリ万博か。

最後の将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に帰した1867年。

その年の正月に、彼は弟・昭武を将軍名代としてパリ万博へ派遣しました。ヨーロッパの人々は次期将軍の有力候補を「プリンス・トクガワ」として迎え、昭武はナポレオン3世夫妻やロシア皇帝とオペラを観劇するなど、わが国最初の宮廷外交を行いました。
随行した渋沢栄一は、経理や危機管理に卓越した手腕を発揮しました。後に経済人として活躍する渋沢の原点は万博にあったのです。

この時から、劇的に羽織袴、二本差し帯刀の武士姿から劇的に洋装になるのである、私はパリ万博以前にも洋装の日本人がいると思うが、やはりこの1867年が洋装に向かった大きな変化の時代であったと思う。

現存する写真や資料から読み取れるのは確実にこの時代1867年からであったと考えられます。髷を切り斬髪にして、ポマードで固めるヘアースタイル、しかし考えてみると、総髪髷の武士はいいが、月代のあった武士は困ったであろう、月代が伸びて整髪できるまでは大変かなって思うのですが、まあ、どうでもいい話であるのは確か。

NHK大河ドラマ「晴天を衝け」に見るボウタイ。さすがNHK時代考証が細やかである。

蝶ネクタイは総称して 「ボウ・タイ」という。

これを大別すれば、「バタフライ・ボウ」と 蝶ネクタイは総称して 「ボウ・タイ」という。

これを大別すれば、大きく蝶のように結び目から開くと 「クラブ・ボウ」とになる。蝶ネクタイが大きく蝶のように結び目から開くのが、バタフライ・ボウ。 一方、直線的な結び目になるのがクラブ・ボウである。要するにクラブ(棒)状蝶ネクタイと呼ぶわけだ。

明治新政府の官吏たちは髷姿に羽織袴で仕事をしていた、洋装は高級官吏、しかも洋行帰りに限られていたようである、想像であるがパリで洋装を何着か求めてのであるまいか。

さて、肝心なネクタイであるが、そう何本も買い求めるわけではなかった。おそらく2-3本ではあるまいか。

そのネクタイは、「クラブ・ボウ」棒状のネクタイである。この時代大きく蝶のように結び目から開く「バタフライ・ボウ」ではなかったのである。

「バタフライ・ボウ」が出現したのは後年1900年代と言われている。

数少ない「クラブ・ボウ」を毎日締めているとやはり痛んでくるのである、手垢で汚れ、結び目がよれてくる、洗っても良いのだがシルクはデリケートである、仕上げにアイロンも必用である。

当時の官吏宅にはあったのか・・。アイロン。

 

ここからは、あくまでも小生の想像である。

富国強兵を国是とした明治新政府は、1872年明治5年富岡製糸場を作る。

高品質な絹糸を製造することに重点を置いた生糸は海外で高く評価され外貨獲得に大いに貢献したのである。

と、まあ、ここまでは教科書に出てくる話であるし日本人ならだれでも知っていることである。

毎日締める高級官吏の「クラブ・ボウ」は痛んでくるのは想像に難くない。

さて、どうすると小生が考えたとき、日本には世界最高の絹織物がある、着物である。

これを使わない手はないと考えるのは高級官吏も小生も同じである。

奥方に、「これと同じものを作ってくれ」と「クラブ・ボウ」渡された奥方はどうするか、

羽織や着物をほどいて、「クラブ・ボウ」を縫うことなどたやすいことではないかと思うのですがいかがでしょうか。

渋沢栄一/吉沢亮、五代友厚/ディーンフジオカ両氏の「クラブ・ボウ」は。

本当にNHKは凄く細やかな時代考証が出来ていると思います、主人公の渋沢栄一の締める「クラブ・ボウ」は着物生地そのものではありませんか、アースカラーの渋い「クラブ・ボウ」

しかもバランスよく長めに結んでいます。首の太さと同等かやや大きめに結ぶのが綺麗に見えますね。

五代友厚の「クラブ・ボウ」も素敵に決まっています、アースカラーベースに格子柄の着物生地ではないかと想像します。

日本には、世界に自慢できる着物という伝統衣装があります、とてもエレガントです、その生地を織りあげた職人の知恵や根気、そして熟練の手仕事を思うとき、西洋のネクタイ生地に負けない「和の伝統生地」で作り上げた、ボウタイを結ぶこと、実はとても優雅でエレガントなことではないでしょうか。

手前みそになりますが、小生が展開する「拘りのボウタイ政次郎」は、日本が世界に誇る絹織物着物生地を使っています、しかも100年前の生地を主に使っています。

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